komatan  ■ アオバト 調査・研究
 ■ TOP
>>アオバト

記録(声)

TOP >>アオバト >> 調査研究
01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21 22 23
24
 

大正、明治期に海水吸飲の記録はないのか 

私のアオバト仮説 その5

田端
2002.01.19


大正、明治期に海水吸飲の記録はないのか


 世界のアオバトの仲間たちのほとんどは熱帯に棲む。
 日本のアオバトだけが北限に生息域を広げた。それが海水吸飲行動と関連があるのではないか?
 海水吸飲行動が見られていないズアカアオバトは地上採餌もよくするようだ。それに引き替えアオバトの方は、ほとんどが樹上採餌で、果実を食べても種子を排泄しまう。


 種子に含まれるミネラル分を補うために海水を飲むのか、または(そして)果肉食に偏っていると体内のカリウム分が増えてNa-Kバランスが崩れ、これを正常に保つためにナトリウムを含む海水を飲むのか?
 この謎の解明はちょっと脇に置いて、今回はこのアオバトについての記録を日本史の中から拾い出してみよう。 新たな仮説の提示のために!


アオバトっていつごろから日本にいたの

 「アオバトって昔から日本にいたの?」 

 改まってそう聞かれると、即答できない。

 大体が鳥の化石はほとんど残っていない。

 「いたのか、いなかったのか」という疑問に答える決め手は?

 日本のアオバトの標本に学名が付けられたのが1835年、天保6年のこと。命名者はオランダのライデン自然史博物館の館長、テミンクだ。彼はシーボルトの『日本動物誌 鳥類編』の筆者だが、来日したことはなかったそうで、この標本を日本から送ったのはシーボルトだ。
 シーボルトは1823年(文政6年)長崎にオランダ商館医として着任し28年の『シーボルト事件』でいったん国外追放されたが、59年(安政6年)に再来日し幕府の外交顧問を務め、62年(文久2年)に離日した。この間、アオバトは日本列島のどこかで捕獲され標本になってオランダに送られたと思われる。

 アオバトの学名にはTreron sieboldii(Temminck,1835)とシーボルトは関係者として、テミンクは命名者として名前が残されている。
 私たちがいま眼にしているアオバトは、1823年から62年の間には日本にまぎれもなくいたのだ。
 では、それ以前にはアオバトは日本にいたのか?


文章での記録は江戸時代前期までさかのぼる

 菅原浩・柿澤亮三編著(1993)『図説 日本鳥名由来辞典』に糸口があった。
 この本は奈良時代の万葉集から江戸時代後期にかけての文献に鳥名の変遷をたどり、鳥の和名の由来を探ったものだ。

 “はと”という呼称は奈良時代の古事記や日本書紀にある。
 平安時代では“やまばと”と“いへばと”の呼び名が登場する。
 “やまばと”(鳩)は野生のハトの呼称で多くはキジバトを示し、後世にアオバトをも呼ぶようになった。“いへばと”(鴿)はドバトと思われる。
 室町時代には“つちくれ”(鳩)の名が現れる。“やまばと”の異名で背に赤褐色の斑(つちくれと見立てた)があるキジバトの古名。

 江戸時代になりキジバトが“きじばと”と呼ばれるようになり、これと前後してアオバトが主に“やまばと”と呼ばれるようになったと思われる。

 アオバトを“あをばと”と呼ぶ呼称が登場したのもその頃だ。
 文章に間違えようもなくその鳥の特徴が描写されていれば、その鳥名が現在の日本産鳥類種の何に当たるかが同定できる。


 江戸時代前期の『本朝食鑑』は「山鳩、頂、背は深緑、目前 嘴後 臆(胸のこと)に至るまで黄色、臆に緑斑毛あり、腹は白く緑文あり……」とアオバトの特徴を描写した恐らく最初の文献かもしれない。より古い時代に博物学的記述を期待するのは無理だろう。


日本での一番古いアオバトの絵画記録も17世紀か


 同定の助けになるのは絵だ。アオバトの特徴が描かれている絵とともに記されている鳥名からアオバトがかつてなんと呼ばれていたかも判明する。
 尾張藩士の水谷豊文の描いた『水谷禽譜』は1810年頃の書とされ、ここには“アヲバト”の絵としてアオバトが、“尺八バト”としてズアカアオバトが描かれている。
 増山正賢(灌園、雪齋)『百鳥譜』は1800年頃とされ、“青鳩”“尺八鳩”としてアオバトが、さらに“青鳩 雌”としてアオバト♀が描かれている。
 国立科学博物館叢書@『日本の博物図譜』にさらに古いアオバトの図版を見つけた。尾形光琳の筆による『鳩図』だ。
 紹介している西本周子(2001)によると、もっと時代がさかのぼれることがわかった。尾形光琳(1658〜1716)の書いた、このアオバトの絵は狩野探幽(1602〜74)の「鳥獣写生画」を模写したものにまず間違いないとある。
 探幽が外国文献から模写してなければ、これが日本産鳥類としてのアオバトの絵の記録の一番古いもののようだ。
 実は中国にもっと古いアオバトの絵がある。
 私の記憶を蘇らせてくれたのは九鬼遊くんで、中国の徽宗皇帝が描いた『桃鳩図』(1107年)だ。日本のアオバトの記録にはちょっとなりそうもないが、参考資料として記しておこう。

海水吸飲の記録は昭和年代までしかさかのぼれない


 さて、本題のアオバト海水吸飲記録で一番古いものはというと、1937(昭和12年)清棲幸保(1952)の「1937年8月15日に照ヶ崎で海水を飲む」という記述が最古?のものと思われる。

  籾山徳太郎(1917)が 1913(大正2年)以降、相模中郡において獲られたものとしてアオバトを記録しており、「あをばと(こまおひどり 大磯。おあおゝ 大磯付近)」という方言名の注があるが、大磯の記録であっても、照ヶ崎での海水吸飲記録ではない。

 本多勝一の『きたぐにの動物たち』の聞き書きでは小樽市の張碓の「えびす島」の対岸のナラの林の部落が和宇尻( わおじり)、つまり、アイヌ語のワオシリ、「ワオ(アオバト)のいるところ」の意味だが、ここに住んでいた浪花誠二郎翁の話では、江戸時代にはこのあたりの海岸に何千羽というアオバトの大群が集まったらしい。

 しかし、残念だが、海水吸飲をしたとは話されていない。



 川口爽郎(1982)の『萬葉集の鳥』によると、日本最古の文献である、古事記・日本書紀・風土記にあらわれた鳥の名が57種類に分類整理されている。これを、いちばん昔に認識された鳥名(またはグループ名)記録とすることに異論はないだろう。

 江戸時代になって初めて記録に登場したと思われるアオバト
 果たして日本列島への登場の時期はいつだったのだろうか、海水吸飲はいつから始まったのか。
 謎の解明はまだまだ続く。

 


参考文献

  1. 菅原浩・柿澤亮三 編著  1993:  図説 日本鳥名由来辞典 柏書房
  2. 西本周子 2001: 尾形光琳 国立科学博物館編集 国立科学博物館叢書(1) 日本の博物図譜 
      十九世紀から現代まで 東海大学出版会
  3. 清棲幸保  1952: 日本鳥類大図鑑  講談社
  4. 籾山徳太郎 1917: 相模中郡産鳥類目録 1917.4「鳥」日本鳥学会
  5. 本多勝一  1969: きたぐにの動物たち 実業の日本社
  6. 川口爽郎  1982: 萬葉集の鳥  北方新社

参考webサイト

ライデン自然史博物館: 日本では失われてしまった或いはほとんど残っていない動植物の標本がコレクションが現存するとあります。これは勿論シーボルトの偉業によるものです。