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リョコウバトの悲劇を繰り返すな

私のアオバト仮説 その12

田端
2002.08.18

 小樽の佐々木勇さんが主張された“アオバト百万羽生息説”は、アオバトが禁猟と法改正された年の狩猟統計のハト捕獲数の減少を計算して、その減少分の羽数を指して“少なくともアオバトは全国的にこのぐらいはいたのだ”と主張したものである。この仮説は当時の統計数字の信憑性から、そのまま受け入れるわけにはいかないが、かつてアオバトは現在とは比べものにならない相当数が生息していたことは事実のようである。過去の文献からその間の事情を推測してみよう。そこから意外なアオバトの実体が見えてきた.

かつてのリョコウバト
Errol Fuller, "Extinct Birds", Pengin Books Ltd. 1987

アオバトは美味で、薬用としても珍重された

  • アオバトは“中国関西方面にては肉味美なるがため秋季の獲物として多数店頭に飾られる”和田(1926) 
  • アヲバトは方言でキバトと云い、黒焼きにして肺病の薬として珍重すると.数もあまり多くない”昭和4年3月15日〜25日 長野・菅平 『鳥獣報告集』復刻版
  • アヲバトは木曽地方にも甚だ少なき鳥類なのに黄疸の妙薬なりとの迷信により濫獲せらるるため次第に減少して絶滅に瀕しつつあり” 昭和8年1月21日 長野『鳥獣報告集』復刻版

 これらの昭和初頭の文献の記述でもわかるように、アオバトは食用に濫獲された歴史があったことがわかる。

アオバトは狩猟しやすかった

 アオバトは、しかも簡単に狩猟できたそうだ。
川口(1937)によると、アオバトは単独で木に止まっている時は警戒心が強く、狙い難いし、撃ち損じたら絶対に戻ってこないが、群集すると警戒心が極端に粗漫になる傾向があるという。
 そのために、狩猟はアオバトたちが集まる場所で行われた。

山の鞍部とか、突角とかで、概して風当たりの激しくない南受けの処、そこに立った老大木の樫や椎などの梢近くを選ぶのを常とする。毎年多く来遊する地方ではその樹までが特定している
……西北薩摩及び南日向などの猟場では、その樹その梢を猟の囮の装置処として一種の株の如く猟師仲間に売買価値を評定されるくらいになっている

と川口氏はいう。

 狩猟は葉の繁ったこの大木の下で行われ、一番下の枝にとまっているのから狙って撃っていく。銃声に驚いて一度は木に止まっている全羽数が飛び去るが、木の葉が繁っているために木の上方の枝から下の様子は見えず、同僚が殺されたかどうかには気づかず、木から遠くの空を数回旋回してから、再び元の木の下に全羽数が大体戻ってきて止まり、また、下の枝の鳥が撃ち落とされ、一日中このことが繰り返される…と佐々木氏の本にある。

明治の中頃までは同じ木の下で一日に80羽くらいアオバトをとる猟師があって、小樽の店で売られていた。あんまり撃ちすぎたため、とうとう弾丸でハチの巣みたいになって枯れた木もあった”

という描写もあるくらいだ。猟師の間では「馬鹿鳥」という方言ができたほどである。

 本州の南部、九州地方のアオバトの多く生息する地方では、アオバトのみを狩猟したいという目的のみで、狩猟免状を受ける者さえもあったくらいだというから、いかにアオバトは容易にたくさん獲れたし、食料としても魅力ある鳥であったかを物語るものであった”とも佐々木氏は語っている。

禁猟になると、有害鳥獣に指定されて撃たれた

 1947年の法改正で狩猟対象から外されたアオバトだが、その後も有害鳥獣として捕獲されていた。
 国会図書館に行って過去の記録を調べていたら、キジバトだけが狩猟対象になって以後の記録で、環境庁長官に有害鳥獣駆除の許可を得て獲ったアオバトの記録が見つかった。(数字は年度)

1972 大分県で10羽、
1976 和歌山で293羽
1977 和歌山で618羽、鹿児島で91羽、島根で18羽、兵庫で2羽 
1979 和歌山で312羽、鹿児島で11羽
1982 和歌山で289羽 
1983 和歌山で507羽

 まだ、すべての記録に当たり終えてはいない。
 どういう理由で多数のアオバトたちが撃たれたのかが知りたくて、資料の出所の環境庁に行って“どういう理由で長官が許可したのか、その書類を見たい”と聞いたら、そんなに古い?!記録はありませんだって。

和歌山県の猟友会にオダヤカナ手紙を出したが、梨の礫。

 佐々木さんの本にヒントがあった。

「本州ではアオバトにウメの花と若い実が、果樹園で被害があって、宮崎県で有害駆除の許可が出たことがあったというし、和歌山県田辺市及び隣接の2町で同様の被害があり、毎年捕獲許可が出ていて、昭和56年度は222羽が捕獲されているのである。これはウメの被害のことである。」

 この後に佐々木さんは、サクランボに被害がと言って小樽市の農家から駆除申請が出たが、調べてみると2羽のアオバトがサクランボをつついたのを見たという程度で、害鳥とするのは納得できないと憤り、北海道サクランボの生産高の6割を占める余市町、仁木町の農協に問い合わせて被害無しの回答を貰い、反論した。小樽市の市の鳥に指定する際にも、一部農家からの苦情で指定がきわめて難航したと、その当時の苦労を書いている。

リョコウバトの悲劇を繰り返すな

 かつて北米に、リョコウバトというハトが数十億羽もいた。 いまは地球上からは1羽も残らずに消えてしまった。ブナやナラの実を食べていたが、群れが通過した後は、木の実は食べ尽くされ、太い枝は折れ、糞は雪のように積もったという。1810年ごろの鳥類学者の観察記録に“雲のように頭上を通過する群れをカウントしたら約20億羽と推定した”とある。

 この鳥の肉は美味なうえ、大挙して渡来し1本に木に何百もの巣をつくる習性があるので、猟には恰好の獲物だ。捕獲法は鉄道の敷設によって、より組織化された。19世紀前半までに、何千人もの人がリョコウバトを捕獲するために雇われ、この鳥専用の銃も考案された。1869年には1カ所で750万羽のリョコウバトが殺され、1879年のミシガン州での捕獲数は10億羽にものぼった。

 その結果、19世紀後半には、アメリカ全土でこの鳥はまれに見られるのみとなり、1894年を最後に営巣の観察例は途絶えた。1914年9月1日午後1時、シンシナティ動物園で飼育されていた最後の1羽が死に、リョコウバトは絶滅した。

アオバトは当年少しと人々いえど小生の目には夥しきものに候.人々の多いという年はさぞ盛んのことならむと推察され候” 昭和3年4月3日 川口孫治郎 薩摩山野局にて、内田博士宛 『鳥獣報告集』復刻版

 “秩父山中、中津川の畔、椚平近くの山へ、毎年五月となると決まったように、青鳩の大群が渡ってきて、オ・オアオウ! オアオウ! と鳴いていた。(中略)時にパーンと銃声の轟くことがあったが、そんな時何百羽と云う大群の青鳩がぱっと飛び立った。それはこの鳥の肉を薬用に供しようとする密猟者の放った銃声であった。”堀内(1986)

 こうした記述を読むとかつてはわが国の山野には相当数のアオバトたちが生息していたことが推定できる。

リョコウバトの悲劇をアオバトに繰り返してはならない

参考文献

  • 川口孫治郎 1937: 日本鳥類生態學資料        巣林書房
  • 和田干蔵 1986 : 青森県叢書 全集・日本動物誌   講談社   ※原著作は1926刊行
  • 堀内讃位 1986 : 鳥と猟 全集・日本動物誌 講談社 ※原著作は1945刊行 
  • 農林省畜産局 『鳥獣報告集』復刻版 1998 : 皓星社 ※原著作は1929〜1940刊行
  • 成末政恵 1991: ドドとリョコウバトの絶滅, 動物たちの地球21 朝日新聞社
  • 佐々木勇 1986 : 『あおばと』 自費出版
  • 荒俣宏 1987: 世界大博物図鑑 第4巻 【鳥類】平凡社